会長コラム“展望”

コントロールできること、できないこと

2016/06/30

個人的価値観

 「社長、ご自身は運がいいほうだと思われますか?」。機関投資家とのミーティングで、アナリストからそんな質問をされたのには面食らった。ふつうアナリストというのは、事業の概況から詳細、そして直近の業績や予測数値について事細かく突っ込んで質問してくる仕事で、非科学的なことは聞いてこない。(ちなみに、本稿では特に触れていなかったが、昨年わたしたちの会社は上場させていただいた。そのために、会社の現状や先行きの見通しなどを説明する場が定期的に必要になるのだ)。
 確かに、株式公開を目指す会社は世の中にたくさんある中で、昨年それを果たしたのは92社にとどまっている。そう考えると、周りから見れば運がいいのかもしれない。そんな程度の他愛のない質問かと思ったが、もしかするともう少し深いところを聞きたいのかもしれない、そんなふうにも思ったので、ちょっと長い返答をしてしまった。ということで、ここからは、わたしたちがよくわからないと思っている分野のおはなしです。
 人生の中で、わたしたちはいろいろなできごとに直面する。それらは大きくふたつのカテゴリーに大別される。ひとつは、目で見える、頭で理解できる、数値で計測できる等々の、いわば常識的なできごとある。それが良いことであっても、悪いことであっても、まあ理解できるという範疇のできごとだ。例えば、司法試験に合格したというできごとがあれば、それは猛烈な勉強を長期間続けた結果、つまり努力の産物と人は受け止めるだろう。逆に不合格であれば、努力が足りなかったと理解する。いまひとつには目で見えない、理屈では理解できない、確率的にあり得ない等々の常識外のできごとがある。「信じられない」「あり得ない」というやつで、宝くじで3億円が当たったとしたら、それは努力とは無関係でありコントロール不能なできごとである。
 これを図で示すと下のようになる。わたしたちは誰も幸せに生きていきたいと願っている。しかし、幸せを得るためには何らかの活動が必要であることも十分に承知している。希望する学校や資格試験、あるいは就職先に合格することが幸せに近づくことだと思えば、そのための勉強をしなくてはならないわけで、ただ神さまにお祈りをするだけで何とかなると思う人はいない。
 いっぽうで、努力と結果とにはある程度の相関性は認められるものの、努力だけで結果が決まるというわけではないことも、皆が知っている。学校の入学試験で、仮に合格点が300点以上だったとする。そこでは300点で合格する人と、299点で不合格になる人がたくさん分布するわけだが、両者には有意な学力の差はない。
 スポーツの大会、音楽や芸術などのコンクール、大企業の社長のポスト、サラリーマンのマージャン、ノーベル賞並みの科学的発見などなど、実力差が拮抗する中で念願が叶えられるかは、最終的には運が良かったか、悪かったかで決まっていく。わたしたちが生きている世界はこんなところである。
 さて、人は身の回りに良いできことがたくさん起こるようにと、そこに向けた努力行う。努力をすればするほど、良いできごとは増えていく。ただし、それは人がコントロールできる領域に限ったことだ。では「幸運」とか「ツイてる」などと呼ばれるコントロールができない領域については、わたしたちはどのように対処すればよいのだろうか。幸運の確率を高め、不運を避ける最適解なんてあるのだろうか。
 当たり前だがそんなものはありっこないし、そんな考えをすること自体が不遜なのかも知れない。ただ、世の中のありようや、尊敬すべき人たちの言動や行動を観察すると、何となくそこに対するヒントらしきものは存在しているような気がする。それは例えば、「道徳心」「宗教心」「公共心」等の「○○心」というキーワードだ。善悪を考え善きことを行おうとすることや、神仏(わたしたちの力の及ばないものの総称)の存在を認めて、そこに対する畏敬の念を持ったり、祈ったりする。
 あるいは他人様や社会のことを思う気持ちをもつこと。こんなことを書いておいて、自分がどうかと問われたら顔が赤くなってしまうが、歳のせいか、こういったことを少しだけでも意識していくことが重要なのではないか、と思うようになった。
今般、東京都の舛添知事が辞任する羽目になってしまった。努力して東京大学で学び、さらに頑張って学者、そして政治家になり、都政を司る地位にまで上り詰めた。知事としての業績もしっかり上げていたように思うが、思わぬところでつまずいてしまった。努力によってわたしたちがコントロール可能な領域では、最適化していた人生の道のりも、人がコントロールできない領域に対する無頓着がこのようなできごとを招いたのではなかろうか。まあ、氏もこれを契機に学べば良いことではあるが・・。
 ということで今回は、わたしたちの目の前で起こることには、常識で理解できることと、理解不能なことがあって、これらを一緒くたにせず、分けて考えることが大切じゃあないの、ってことを書いてみました。
株式会社株式会社 代表取締役社長
清水 祐孝