会長コラム“展望”

熊本地震を契機として

2016/05/31

社会

誰もがご承知の通り先般、熊本地方で大地震が発生した。まずは被災された方々に対して心からお見舞いを申し上げると共に、被災地の一日も早い復旧を願いたい。わたしたちは5年前にも、東北地区を中心とした東日本大震災という大きな自然災害に遭っている。その時に考えたことを本稿に書いていたのでちょっと横着して再度掲載したい。




大災害を契機として(2011年4月)


05_地震

ただ、そこに生活の拠点があったというだけの理由で生命が奪われてしまう。あるいは、不自由な生活を強いられる。そんな理不尽があって良いものかと思いますが、そのことを受け入れなくてはならない悲惨な状況を我々は目の当たりにしました。運命は目に見えない何か(自然?それとも神?)に結局は委ねられていて、その範囲の中でのみ私たちの人生は存在しているということを受け入れざるを得ないことを知りました。


犠牲者のプロフィールが掲載された警察庁のウェブサイトで、その分厚いページをめくっていると目頭が熱くなるのを抑えることができません。年齢の項目に0、3、11などの数字が記入されているのを見ると、なおさらです。無数の納得できないであろう死を前にして、遺された私たちは、何を考え、どんな行動を起こすべきなのでしょうか。避難所にモノを送り、雨後の竹の子のように出来てきたさまざまな組織の義援金振込口座に金を送り、あとは「がんばろうニッポン」と連呼する、それだけで私たちは思考を止めて良いのでしょうか?


意地悪ですが、私にはこのような慈善行動は、それを行う側の心の満足(いいことをしたという気分を味わう)ために行われているようにも思えたりします。慈善は相手を思う純粋な心から生まれるものと心得ていますが、各組織は義援金の募集窓口を作って慈善の競争を行っているようにも感じます。そして「がんばろうニッポン」と連呼しても何をどうがんばれば良いのでしょうか?


批判したいのではありません。むしろ、このような他者を思う行動は素晴らしいことだと思っています。多くの人が自らの天分を他者のために生かしたいと考えているわけですから。ただ、この人々の素晴らしい心を、被災者への金銭の寄付や、掛け声だけに終わらせず、大きなムーブメントにするために、もっと突き詰めて考えてみるべきだと言いたいのです。


大きな災害が起こったときだけではなく、普段から何らかの理不尽によって肉体的あるいは精神的なハンディキャップを負っている人や、物質的に困窮な状態に陥っている人は、目に見えにくいけれど大勢います。他者を思いやるのなら例えば、そんなことに思いを巡らせるのも良いのかも知れません。


あるいは復興を願うのであれば、例えばこのように考えを深めてはどうでしょうか。義援金だけで復興ができるわけではありません。当然、国庫からの支援がなければならないわけで、これらは最終的には税金というかたちで私たち国民が負担するわけです。しかし、現実には日本というお財布は空っぽですから、どこから工面してくるかが焦点となります。国債増発、つまりさらなる借金というかたちを取れば、財政危機はますます深刻化し、国債の大暴落という事態に発展するかも知れません。もしそうなれば、地域の復興はおろか日本全体を復興させなくてはならないという、悲劇を生んでしまうでしょう。では、増税を行うのか、あるいは財源を他から持ってくるのか。

要は、私たち国民は税を通じてすでに復興のお手伝いをしているわけです。復興の願いを実現させたいのならば、これらの舵取りを行っている人たち、つまり政府にきちんとした能力やビジョンがあるのか、等々も一度考えてみてはいかがでしょうか。誌面に限りがあるので深くは触れませんが、他者を思う心が、さらに大きな実りを生むために義援金の寄付や掛け声で思考停止せず、もっと考えることが私たち日本人に必要だと思うのです。


次に、私たち一人ひとりは今回の大災害が私たちに与えた意味を考えるという作業を怠ってはいけない、そのように考えます。


夥しい数の「死」、それまで築いてきたすべてを失う「無常」、そして、そんな中にあっても礼節を忘れず、助け合い励ましあう人々の姿、これらの光景を目の当たりにして、私たちは「生きる」ということの意味をそれぞれがいま一度見つめなおすことが必要なように感じます。


冒頭で運命が目に見えない存在に委ねられていて、その範囲内で人生は存在していると書きました。考えてみれば当たり前のことなのですが、そんなことを意識することなく、あたかも生が無限に続くかのように私たちは人生を送っています。しかし、今回の悲劇は、人生には限りがあり、いつかは分かりませんが、人は必ず死を迎えることを多くの人々に意識させる大切な機会となりました。逆に言えば、震災の犠牲者は遺された私たちに「生きる意味とは何か」と問い掛けているのです。そのことを一人ひとりが考えることが、犠牲者への供養となるのだと信じています。


「がんばろうニッポン」という掛け声だけに終わることなく、私たちそれぞれが震災を通して、深く考えることが、本当の意味で被災者の犠牲や苦難を無駄にしない唯一の方法なのだ、そのように考えるのです。




わたしたちは、被災された方々を元の生活に戻すことも、災害をなかったことにすることもできない。出来るのは被災地や被災者に対するわずかな支援と、各々がそこから学ぶことである。わたしはあの時、大規模な災害に遭ったときでなくても、この国には被災者と同じような状況におかれている子どもや若者がたくさんいることに思いを巡らせた。そして、(一時的ではなく継続的に)そのような人たちのための活動を行う団体を支援しようという思いに至った。災害なんて起こらないに越したことはないが、災害を目の当たりにしたことを、せめて未来への良い機会にはできるはずだと思っている。


株式会社鎌倉新書

代表取締役社長 清水祐孝