会長コラム“展望”

人の役に立つということ

2016/09/30

組織

この夏、知り合いが運営する児童養護施設で流しそうめんのイベントを行うという話を聞いたので、費用の足しになればと少額の寄付をさせていただいた。わたしは別の予定が入っていたため、当日は参加することはできなかったから、そのこと自体記憶から遠ざかっていたところ、後日、ちょっとしたうれしい出来事があった。イベントに参加した子どもたちが支援に対する感謝の手紙や絵を書いて、プレゼントしてくれたのだ。きっと職員の方が気を遣ってくれて、子どもたちに書かせたのだろう。ところが、そんな魂胆はわかっていても、相手が子どもだし貰うと結構うれしいものなのだ。気がつけば、子どもたちの手紙や絵をみながらニヤニヤしている自分がいた。これだったら、また寄付しても良いかななどと思っていたが、少し経ってその考えってどうなのかな、と思い返した。


わたしの頭に浮かんだのは、子どもたちからの感謝の手紙や絵を貰った→満足感を得た→また寄付して良いと思ったというものだから、これはいかにも俗っぽい。本来、慈善行為とは見返りなど求めないものなのだろうから、見返りがあったことに満足しているというのは支援者として失格である。でも、慈善行為には見返りを求めてはいけない、と短絡的に考えて良いものだろうか?


最近は、わたしたちの社会では多くの人が被災する出来事がたびたび起こっている。記憶に新しいところでは阪神淡路大震災、新潟県中越地震、東日本大震災、熊本地震などがわが国では大災害と呼ばれるもので、並べてみると何年かに1度はそのような出来事が起きている。最近では情報伝達の手段も多様化しており、テレビや新聞だけではなく、インターネットを介して個人から発信された情報も瞬時に届けられたりするから、被災地の情報も伝わりやすい。同様に被災地や被災者を支援しようという思いもインターネットを介して拡散しやすくなっている。支援の輪も広がりやすいのだ。そんな時代だから大きな災害が起こると、被災地や被災者を支援しようと数多くのボランティアが現地に駆けつけ救援活動を行うことになる。そこまでの暇がない人には、お金を支援するという手立てがある。


大災害が起こればあっという間に○○基金なる名称の銀行口座が開設され、そこへの義援金がマスコミを通して呼びかけられる。だけど、めいめいの思いで行う救援物資の提供や、救援活動が全体の被災状況から見て適切なのかどうかは、良く分からない。被災者の役に立つかどうかより、被災者の役に立ちたいという思いがそこでは優先する。義援金だって、どのような経路で被災者の支援になっているかをきちんと知っている人は少ないだろう。(ちなみに大規模災害時の義援金は自治体の配分委員会を通して、全額が被災者に送られているようだ。)


人の役に立ちたいという思いを多くの人が持っている。でも、そこにはわたしのように見返りがあることを期待してみたり、あるいは「良いことをした」という自身の満足感がその行動の源泉だったりする。そのように考えると、慈善行為は支援を求める人と、誰かの役にたちたい人との取引であり、お互いの利害が一致しているからこそ成立するものなのではないだろうか。人の尊い気持を取引だとは無礼千万と怒られそうだが、自らの満足感も見返りの一形態だと考えれば、すべての慈善行為は何かを渡して何かを得る、という取引行為と同じことだ。


もちろん、わたしは何らかの見返りを(意識、無意識は別として)期待する慈善の行為を良くないことだと思っているわけではない。そういう視点ではなく、慈善行為は特別なものではないということが言いたいだけだ。人の役に立つことはイコール社会貢献であるし、個人が所得を得る、消費をする、納税をすることも社会貢献であり慈善行為だ。そして企業の発展は、消費を増やし、雇用を増やし、納税を増やすというこれまた崇高な社会貢献活動なのだ。


社会は変わり続けている。今日ではモノが溢れ、サービスが消費の中心となっている。サービスの消費が当たり前になってくれば、次のステップとして社会が直面する様々な問題にサービス取引の概念を取り入れる組織が存在価値を増してくる。ただその組織は、取り組みの内容からして、「利益を生み、貯めこむというのとは違うよね」ってことなのだ。社会起業家とか非営利組織はそんな時代の要請であり、今後も社会において大きな役割を果たしていくのだろう。以上、個人も企業も非営利組織もすべては自らの幸福と社会の貢献を担いながら、バランスを取りながら存在しているというのがオチで、あらま、大それた話になっちゃった。


株式会社 鎌倉新書
代表取締役社長 清水 祐孝