会長コラム“展望”

年頭にあたり

2017/01/01

個人的価値観

DSC_0022 明けましておめでとうございます。

青年(大学生ぐらいだったかな)のころ、歳を取ってくると月日の経過を早く感じるようになるなんて親からよく聞かされた。その頃は何を言っているのだか、意味するところがよく分からなかった。ところが、それから月日が流れ、当時の親と同じポジションに立つようになると、その言葉が実感として理解できるようになってくる。


そう、最近は一年なんてあっという間、2016年も矢のごとく過ぎ去ってしまった。ググってみると、この感覚はジャネーの法則と言われていて、時間の心理的長さは年齢の逆数に比例するということらしい。ということは、これからの一年一年はさらに早く感じることになるのだろうから、人生もあっという間に終わってしまうのだろうと思ったりする。


日本の男性の平均寿命が約81歳、わたしの場合そのあたりまで生きたとして物理的な時間はまだ3分の1程度残されている勘定になる。けれど、時が経つのがさらに早くなっていくわけだから、主観的に感じる時間はすでに残り10分の1ぐらいなのじゃないかと思ったりする。


加えて、死期がやってきているのに医学的に生きるであろう最後の数年は充実したものにし難いだろうから、カウントしない方がいいとも思っている。そうか、やっぱり残りはそんなにない。物理的な物差しや他人さまの物差しなんて当てにしちゃいかんと思うのは、子どもの頃から天邪鬼と言われてきた性格のせいだ。そんなわけで残りの人生を(自らの価値観に沿って)どう最適化すべきかを考える瞬間が最近はままある。


この時間が、まさにわたしの「終活」ってやつで、辞書なんかに書いてある「人生の終末を迎えるにあたり、延命治療や介護、葬儀、相続などについての希望をまとめ、準備を整えること」とはちょっと違うのだ。違うというか、辞書のそれは終活のごく一部を指しているように思えていて、わたしにとっての終活は「人生の終末を迎えるにあたり、やっておきたくて、やれそうでやり残していることにチャレンジすること」そんな定義だ。


だとすると、手を付けるのは早い方時期の方がいいに決まっている。ときどき終活についての講演を金融機関や介護施設などから依頼を受けてやっているのだが、聞きにくる層の多くは若くても60代後半で、もう少し早い時期からの終活があった方が良いなと常々感じている。


自らの定義を言い換えれば、終活は人生最後の自己実現であり、それを成功させるためには、夢や目標を今一度設定することが大切だ。夢や目標なんて青臭いとか、実現可能性のある若い時期にしか持てないと思ったら大間違いである。なぜなら、終活期間の夢や目標は、死んだ後に実現すれば良いのだから簡単なこと、実現できるかなんて検証不能なのだ。だから途方のない夢、有り得ない目標が設定できる。要はそれぞれの「決め」の問題なのだ。そんなことを思っているので、わたしも目標を設定した。


死んだ後の世界があって、そこには色々な仲間のいるグループがある。その中に、マザーテレサ、キング牧師、坂本龍馬、稲盛和夫、青木功なんかが入っているグループがある(稲盛さん、青木さんはご健在です、すみません)。要は正しく生きてそれなりに認められた人たちのグループだ。そこに「お前も入れよ」と仲間に入れてもらうこと、これが目標だ。そのグループには、後にイチローなんかも入ってくることになる。


さて、こんな世界があるかどうかは不明であるが、大切なことはあると信じて生きることだ、そう思っている。別に無くてもいいじゃん、それが生きている間の自らを律するものとして機能すれのであれば。と、これがこの話のオチだ。


2017年がスタートした、年頭にあたりそんなことを考えてみる時間があってもいいのではないかと思いくだらない自らの終活を披露した、ごめんなさい。


株式会社 鎌倉新書
代表取締役社長 清水 祐孝