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会長コラム“展望”

社会 2017.03.01

「不安」を「安心」に変えるには

A_ビジネス街 「今年に入って社員の方からの転職の相談が急に増えていたので、どうしてかなと思っていたのですよ」。日本を代表する名門企業の東芝が、原子力発電に絡む大幅な赤字のために債務超過に陥ったことを発表した。その翌日にお会いした人材紹介会社の経営者が話していたことである。


 歴史ある名門企業が危機に瀕しているという。どうしてこのような状況に陥ったのか、わたしは知らない。過去の経営者が悪い、企業統治の不備や不十分、リスク管理が甘いあるいは事業領域が多岐にわたっていてそもそもリスク管理ができない、力を入れる事業の見極めが悪い、儲かる事業から売ってしまうと将来がない等々、マスコミはすでに起こってしまったことを評論し、外野は騒ぐけど、それでどうにかなるような話ではない。


 冒頭の言葉にあるように、企業の危機は従業員の「不安」に直結する。「こんな状況だけど、みんなで力を合わせて頑張ろう」という上司の言葉に表面的には頷くけれど、昇給が止まり、賞与が減る中で、そんな言葉は彼らの「不安」の解消にはつながらない。取引先も同様に「不安」だ。今まで通り商品を納めても、あるいはサービスを提供しても良いものだろうかと逡巡し始める。中でも銀行などは、万が一の場合の損害が大きくなるから「不安」も格別だ。こんな時には、追加貸し出しや借り換えに応じなかったり、貸出条件を厳しくしたりするようなこともよく起こる。メイン行のトップは「引き続き最大限の支援をする」とコメントするが、そんな言葉で他の金融機関の「不安」を解消できるわけではない。このように資本主義は毒が回った企業に対して容赦ない。というか、それが強いものが生き残り、弱いものが淘汰されるという、弱肉強食、適者生存の本質なのだ。


 キーワードは「不安」と「安心」だと思う。

 ひとたび企業が危機に瀕すると、株主や取引先、従業員といったステークホルダーは「不安」になり、みんな逃げ出そうとする。経営陣やメインバンク、監督官庁のように、逃げ出せないと観念した人は「大丈夫、安心しなさい」というが、その言葉はいつも空虚だ。そして、経営陣の入れ替え、儲かっている事業や子会社・不動産などの資産の売却、人員の削減等々のさまざまな対策が施される。しかし、「不安」の部分的な解消は、「安心」にはつながらない。部分的な「不安」の解消をいくら足し算しても「安心」にはならないのだ。80%、90%の「安心」は「不安」のカテゴリーに属し、100%の「安心」のみが「安心」なのである。


 例えば日産である。経営危機に陥った日産に対し、ルノーが資本を入れるのみならず、カルロス・ゴーンというカリスマ経営者が登場し、過去の膿をきれいさっぱり清算し、明るい将来をコミットした。このことがステークホルダーの「安心」を呼び寄せた。シャープも然りである。事業や資産の売却、人員整理、資本の増強などの対処療法を行ってはみたが、「不安」の部分的な解消は「安心」にはつながらなかった。最終的に「安心」をもたらしたのは、鴻海精密工業という圧倒的な規模を持つ企業の支援であり、郭台銘という経営者の持つカリスマ性である。


 人は「不安」が嫌で、いつも「安心」を得たいと考える存在である。逆にいえば、「不安」を「安心」に変えられる人や組織が資本主義社会では勝利を収めるのだ。


 脱線するが、これは危機に陥った場合にのみ当てはまるものではない。モノ、カネに比してヒトの役割がますます重要になる社会環境の中で、従業員の心に「安心」をもたらし、前向きな意識を引き出せる経営こそが企業の発展に繋がり、そのことがさらなる「安心」に連鎖していく。この好循環をどうやって作り上げるか、日々自問している。


 話を戻そう。マスコミ報道を見ていても、対処療法に関する見解ばかりで、「不安」を「安心」に変えるにはどうすれば良いのか、という視点から問題が議論される土壌が私たちの社会にはないことを思い知らされる。もしあれば「安心」の提供者は外国資本であっても良い、となるはずだし、シャープはもっと傷が浅いうちに現在の結果を得ることができただろう。さて、東芝はどうなるのだろうか?外国資本に「安心」の提供者が見出せないとなると、国家(=最終的には国民)がその役割を果たさざるを得なくなると考えるのが自然だろう。ちょっと残念だけど。


株式会社 鎌倉新書
代表取締役社長 清水 祐孝