会長コラム“展望”

新聞の役割

2015/01/30

ビジネス

先日、朝刊を読んでいたら見慣れない体裁の意見広告が全面に掲載されていた。それは、青色ダイオードの発明でノーベル賞を受賞した中村修二氏が代表を務める「発明を奨励する会」なる団体が出したもので、要はサラリーマンが仕事上で得た発明は会社のものではなく、発明者に多くを帰属させるべきだという意見広告であった。

これを読みながら、少し考えてみることにした。確かに、発明によって得られた超過利益を企業がすべて手に入れるのは、サラリーマンの意欲を削ぐし、かわいそうだという意見は尤もだという気もする。だけど、そもそも超過利益の分配を期待してサラリーマンは働いているわけではない。企業は下手をすれば一銭にもならないという大きなリスクを負って研究開発を行っている一方、サラリーマンは企業との話し合いのうえで合意した給与を安定的に得ている。そして、研究開発がうまくいかなかったらといって、「お前はクビだ」などとは言われることはない。

つまり企業はハイリスク、いっぽうのサラリーマンはローリスクであり、そのように考えるとリターンのほとんどは企業に帰属させるほうが理にかなっているのはないかと考えたりした。

新聞は毎日さまざまな出来事について活字を通して私たちに伝えてくれる。同じ日には、東日本大震災による津波で多くの被害者を出した自動車教習所に、過失責任があるかどうかが問われた裁判のニュースが掲載されていた。今度はこれを読みながら、被害者の家族の大きな悲しみや、無念、そして教習所側の対応に対する怒りに、共感の気持ちを持つと同時に、19億円という損害賠償の金額を聞いて、家族の無念を晴らす方法は金銭以外にないものかとあれこれ考えてしまう。さらに隣のページには、子どもの臓器移植のニュースがあって、ここでもまたまた考えをめぐらせてみる。専門的な知識はほとんど持っていないのだけれど……。

さて、わたしはここで社会において繰り広げられる様々な問題について何が正しいのかを主張するつもりは全くない。そうではなく、新聞を読みながら毎日このような作業を繰り返している、という話がしたいのだ。つまり、新聞をその前の日やその日に起こった出来事を知るために読んでいるのというよりも、出来事を通して、自らの感想や意見を形成する作業を行うために読んでいるのだ。ただし、そのようにして形成される感想や意見は、ほとんどの場合、狭い視野や少ない情報をもとに組み立てられるのだから、見識を大きく欠いている場合が多い。

だから、間違っていたり(とはいっても、完全に正しいなんてことは、どこまでいっても100%ではないと思っているが)、とても他人様に披瀝できたりするものではない。ただ、正しい意見を身に着けることに意味があるのではなく、考えてみること、そして意見を形成すること自体に意味があるのだと思っているのだ。

余談だが、「朝まで生テレビ」や「サンデーモーニング」といったテレビ番組で、コメンテーターと言われる人が自らの専門外の問題についてもしゃあしゃあと意見しているのを見ると、よく恥ずかしくないものだな、と感心してしまう。

さまざまな問題について、無垢に受け止め、記者や識者と呼ばれる人たちの意見を単純に受け入れるのではなく、一旦自分のアタマで考えてみることは、とても重要なことなのじゃあないかと思い、最近は若い人にそんな話をしている。もちろん、これはわたしの意見だけどね、ってことも合わせてではあるが。そして、自分の専門領域以外のこともしょっちゅう考えていれば、意見の精度も少しずつ上がるとも思うわけだ。さらに、このような習慣は、自らの専門領域における意見の形成に必ず役立ち、人生を豊かなものにしてくれるのではないかと考えているのだ。

近ごろは自宅で新聞を取っている人も少なくなっている。それはそうだろう、ニュースなんてスマートフォンの電源を入れれば最新のものが瞬時にして手に入る時代だ。だから出来事を知るだけなら、わざわざ高い購読料を払って新聞を購読する必要なはい。でも、新聞を通して考える作業を行うのであれば、紙のほうが断然やりやすい。すきま時間に出来事を知るだけなら電子媒体でも用は足りるが。

最近は、ニュースアプリの会社が資金を集め、大量の広告を投入して、多くの読者を獲得している。彼らは既成のマスメディアの読者を減らし収益を失わせることには貢献しそうだが、自らの媒体にどれだけのロイヤリティを持つ顧客を獲得できるのか、そんな観点から疑問を感じたりする。それこそ、余計なお世話、浅はかな考えかも知れないのだけれど……。

株式会社 鎌倉新書

代表取締役社長 清水 祐孝