会長コラム“展望”

ストーリーを消費するということ

2014/03/31

社会

ゴーストライターは出版の世界においては割と一般的なもので、執筆や編集の技量や時間を持たない著者は、読者に伝えたいことを専門のライター書いてもらったり、プロの編集者に纏めてもらったりする。とはいえ、たとえば世界的な作家である村上春樹氏の作品が、すべてゴーストライターの仕業だということになれば世間は大騒ぎになるだろう。そんな事件が、先日クラシック音楽の世界で起こった。

佐村河内守氏は、全聾の作曲家として多くの音楽ファンを魅了してきた。ところが、自らが作曲したとされる楽曲のほとんどを別の人物が作曲していたことを明らかにしたのだ。事件の詳細については多くの人が知るところなので、ここで改めて書くこともないだろうが、本稿に関係あることなので氏の公にされていた人生ストーリーについては少しばかり確認しておこう。

佐村河内氏は広島県の出身、被爆者の両親を持つ。17歳の時に原因不明の聴覚障害になり、35歳の時に聴力を完全に失う。抑鬱神経症など複数の病に苛まれながらも、絶対音感を頼りに作曲を続け、米TIME誌からは「現代のベートーベン」と称された。光を受けるとその刺激で片頭痛や耳鳴りの発作になるので、普段は暗室にこもり、外出時にはサングラスを着用する。

どうだろう、この人生は悲劇のヒーローそのものだ。両親が被爆者であること、身体に障害を持つこと、そんな大きなハンデキャップを受けながらも創作活動を続け、人を感動させる音楽を作り続ける男。そんな人生ストーリーを知る人が、交響曲第1番《HIROSHIMA》を聞いた時にどう感じるだろうか。作品が音楽ファンを納得させるに足るものであれば、多くの人は「ブラボー」となるだろう。

もし、この作品がどこにでもいるような音大の非常勤講師のものであれば、大ヒットしただろうか。「いや、私は作品を評価しているのだから、ヒットしたに違いない」と言い切れる人はほとんどいないはずだ。

この話からは次のことが導き出せる。つまり、私たちは音楽を消費しているように思えて、その実は音楽だけではなく、そこに乗っかっているストーリーを一緒に消費しているのである。作品に付記された《HIROSHIMA》というタイトルから、広島への原爆投下という悲劇→その犠牲者の子ども→多分その影響での身体障害→そんな人が広島をイメージして作った作品、との連鎖を聞く人に想起させる。だから作品が素晴らしいものに聞こえるのである(実際の作品の良し悪しは知らないが)。音大の非常勤講師による《HIROSHIMA》では、その背景が聞く人の想像を湧き立てないから、素晴らしいとはならないのである。

同様の事例は、あちこちに存在している。分野は異なるが、たとえば最近ブームになっているレストラン「俺のフレンチ」「俺のイタリアン」。ただの美味しいレストランならこれほど話題になることもない。知らない人のために解説しておくと、「俺のフレンチ」「俺のイタリアン」は一流の高級店出身のシェフが作る料理が、ファミレス程度のリーズナブルな価格で味わえるレストランだ。一流のレストラン出身のシェフによる料理、一般的に30%程度といわれる料理の原価を目一杯高くしていること、立食によって回転率を上げ経営を成立させていること、といったストーリーを消費者と共有する。そのことで、消費者は単なる美味しいフランス料理やイタリア料理を消費するというより、料理と共に、この事業を行う会社のオーナーや料理人たちが紡いできた「俺のフレンチ」「俺のイタリアン」というストーリーを消費するのだ。

今日、あらゆるモノやサービスにおいて供給者は余剰となっている。そんな時代に消費者から選択されたいと考えるなら、扱っているモノやサービスを生み出そうと考えた背景=ストーリーを突き詰めて考え、モノやサービスと一緒に伝えていくことが大切である。もちろん、悪用はいけない。それが大きな代償を生むことも佐村河内氏の事例から学ぶべきことではある。

株式会社 鎌倉新書

代表取締役社長 清水 祐孝