会長コラム“展望”

見合っている

2022/07/01

個人的価値観

見合っている

毎朝、近くの神社にお参りに行く。拝殿の前に立って、たいていはポケットの小銭から100円玉を取り出し、お賽銭箱に投げ込む。でも日によっては100円玉がない時もある。50円玉や10円玉で勘弁してもらったりする。たまに500円玉しかなかったりした時は、仕方なくそれを投げ入れるが、そんな時は損した気分になってしまうのは自分がまだまだ未熟だという証拠だ(笑)。神さまは貨幣経済の世界に存在するわけではないから金額の多寡で参拝者を差別するわけではあるまいが。そもそもお賽銭は神社の維持運営のために必要な金銭であり、祈願実現のための対価ではないはずだし。

ここでいつも書いている通り、私は特定の宗教を信仰しているわけではなく、神社でも神さまがいるなんて思って手を合わせているのではない。拝殿の向こうの神さま(なるもの)を活用することで、自らが気付いていない、埋没している(潜在)能力を引き出すことができる、そう思っている。神社の拝殿の奥にはたいてい神鏡が掲げられているが、神さまは外部に存在するのではなく、鏡に映っている自分の中に存在するのだというメッセージだと勝手に解釈している。そして一日100円程度で、自らの眠っている能力の幾ばくかが引き出せるのであれば、この出費はそれを大きく上回るリターンがあり、全く見合っていると考えている。たまに500円玉もなく、紙幣を差し出す羽目になることもあるけれど、神前で手を合わせる行為は「やっぱり見合っているよな」と思いつつこの習慣を維持している。


「寄付」についても全く無縁の人間だった。でも財団の設立に関与することになり、必要に迫られて寄付をするようになった。寄付は買い物とは違って、見返りのない出費だと思い込んでいたので、最初のころは振り込みの際にネットバンキングの送信ボタンを押すのにはとても勇気が必要だった。でも、よくよく考えてみると得られるものがないわけでもないことに気付く。それが何かといえば、いわゆる心の満足であり、いいことをしたという気分、いわゆる満足感だ。そういう意味で寄付は相手を想う純粋な心というよりも、個人的な満足感という対価を求める行為と言えなくもない。だけど、その対価は他人様に迷惑をかけるわけではないわけだから、社会にとって悪い話ではない。したがって、その効用についてはもっと伝えていく必要があるのだと思っている。

次にそのような活動を行っていると、当初はそれが自らの満足を求めた私利私欲の行動といえども、慈善事業等に対する興味関心が広がったりして多少は人間的に成長する。成長すると、私利私欲の度合いが少しだけ薄まっていく。だからまた少し成長する。そしてこれがスパイラル化を描いていく。こうした「本人にとっての好循環」が寄付をはじめとした奉仕活動から生まれる。そういう意味で寄付や奉仕活動も、外野から眺めていると何も得られないように思えるけど、実際のところは「見合っている」のだ。


一見、無駄のように思えることも、よくよく考えてみると「見合っている」ってことが今回言いたかったことだけど、こうしたことはやる前に頭で理解することは難しく、やってみないとそんな考えに至らないというのが難点ではある。参拝を勧めると「宗教ですかぁ」なんて反応されたり、寄付を勧めると「私にはそんな余裕ありません」なんて言われちゃったりして、なかなか「見合っている」ことを伝えるのは難しい。

株式会社鎌倉新書
代表取締役会長CEO 清水祐孝