会長コラム“展望”

コスパの良い学びの場「神さま」

2026/09/01

個人的価値観

コスパの良い学びの場「神さま」

 毎年7月のお盆の時期(お盆といえば全国的には8月が多いが、東京の一部地域などではこの「7月盆」[新盆]が慣行)に行われる靖国神社のみたままつりは戦後の昭和22年(1947年)に始まったもので、国のために命を捧げられた戦歿者の「みたま(御霊)」を慰め、感謝の誠を捧げるために創始されたものという。戦後80年という長い月日が経過し、そんな由来を知る人も今となっては多くはないだろう。イベント化した全国のお祭り同様に、みたままつりは多くの人出でにぎわう東京の夏の風物詩となっている。

 そんな靖国に祀られる「みたま」の存在を信じ、定期的に慰霊と感謝の誠を捧げてきたのが我らがリーダーの高市首相である。これまでも閣僚在任中を含め、終戦記念日や春・秋の例大祭に靖国神社への参拝を続けてきた。以前は、信教の自由があるので首相就任後も参拝を続けると明言していたが、お隣りの大国との悪化した現状を鑑み、国のトップとなった今回は諦めざるを得なかった。と、そこまではよかったが未練がましく全国戦没者追悼式が行われた日本武道館から靖国神社に向かって二拝二拍手一拝の作法で拝礼したという。戦没者と同様に一定の配慮をすべき隣国の反応を鑑みれば、わざわざ公衆の面前でパフォーマンスなどしなくても、自宅の神棚の前で目を閉じ手を合わせれば慰霊と感謝の誠を捧げることが可能なことは、分別のあるリーダーなら心得ていて欲しかったなあ、というのが参拝を日課にしているわたしの感想。

 以前から、終戦記念日になると首相や閣僚といった国のリーダーたちがこれ見よがしに靖国に参拝する。今年も4名の閣僚が決行した。けれど、みたまを慰めたい、感謝の気持ちを表したいと本当に思っているのならば、たった年に一度ではどうかと思うし、少なくともその日が本当に適切かどうかは考えてみたほうがいい。8月15日は昭和天皇による玉音放送がラジオで流された日であり、その後だいぶ経ってから政治家が閣議決定で「戦没者を追悼し平和を祈念する日」と定めた日に過ぎない。310万人と言われる軍人や一般市民の命が失われたのはこの日ではないのだ。一夜に10万人が犠牲となった3月の東京大空襲、3月から6月の間に県民の4人にひとりが亡くなった沖縄戦、そして合計で21万人以上の命が失われた2度の原爆投下、こんな日々も参拝には適してますよとアドバイスを差し上げたい。そうすれば隣国からも騒がれないで済むわけだし。要するに彼らは為政者目線、犠牲者目線(一字違い)じゃないってことなんだろうな。

 さて、こんなどうでもいいようなことをわざわざ書くのは、靖国参拝に関しての個人的な体験があるからだ。30年ほど前の話だが、たまたま「幾山河」という本を読んだ。著者の瀬島龍三さん(故人)は太平洋戦争で陸軍参謀を務めたエリート軍人。シベリア抑留を経て、伊藤忠商事の会長に上り詰めた人だ。政財界に大きな影響力を持ち「昭和の参謀」と称され、小説『不毛地帯』のモデルとしても有名だ。この500ページを超える大著は、瀬島氏の生涯を克明に記した回想録であったのだが、これが若いころのわたしに大きな感銘を与えた。わたしたちの今日の豊かな生活の基盤は、戦中や戦後に生きてきた日本の先輩たちが、多くの犠牲を伴いながら作り上げてきたものなのだなあ、というのが読後感であった。そこで、そんな先輩たちに感謝の気持ちを捧げなきゃってことから靖国参拝が始まった。靖国神社が適当かどうかは意見が分かれるところだろうが、家からも近いしまあいいんじゃないかなということで。

 何十年も毎日参拝していると、ここが実にコスパの良い学びの場であることに気づくようになる。願い事は叶うし、良いアイデアを思いついたり、ポジティブ思考に一役買ってくれたりする。では、そうした「効能」は果たして「神さま」や「霊魂」のおかげなのか。時間が経つにつれてその答えがだんだん分かってきた。「神さま」や「霊魂」は、神社の拝殿にいるのではなく、自分のアタマ(脳)の中に存在するのだ、と。なるほど拝殿の奥に鏡(神鏡)が置いてある理由が分かったような気がした。

 例えば、信心深いがん患者が病気平癒を神仏に対して強く祈願する。それで奇跡的にがんが治癒したとすれば、それは神仏の力ではなく、潜在脳(普段の意識では気づくことができない、脳の奥深くに眠る潜在的な機能や能力のこと)の力をうまく活用したということだろう。神さまが奇跡を起こしたのではなく、神さまを信じる強い気持ちが潜在脳の働きを引き出したってこと。つまり、こうした脳の潜在的な機能や能力を引き出す媒介役を演じているのが「神さま」という物語なのだ。神さまが特別に重要なわけではない。しかし、神さまを信じ、祈ることで潜在的な機能や能力が引き出せるなら、その役割もそれなりに意味がある。

 この「普遍的な神さま」なる存在に特定の固有の名前(イエス、ムハンマド、仏陀など)と付随するストーリーをくっつけたのがいわゆる宗教や宗派、教団というやつだ。わたし自身はそうした特定の宗教に対する信心は有していないが、それ自体は一定の役割を持って存在しているのだと思うし、悪いことだとは思っていない。たまに信心を悪用して人や社会に迷惑をかける組織が存在するが、それはまた別の次元の話だ。

 以上をまとめるとわたしの考えはこうなる。
 神さまに関しては「信じるか」「信じないか」という問いが一般的だが、正しい問いは「活用するか」「活用しないか」ではないのだろうか。「神さま」や「霊魂」の存在するかどうかは科学的に証明できないし、証明する意味もない。ただ、それがあると考えたほうが人生はうまくいく、というのが30年間拝殿に向かって手を合わせてきたことから得た学びだ。
 後半は意味不明だろうな、ごめんなさい。

株式会社鎌倉新書
代表取締役会長CEO 清水祐孝

画像素材:PIXTA