会長コラム“展望”

会社が考える幸福とは

2013/02/28

組織


今月は会社における人材のことを少し考えてみた。原稿を書くために考えたのではなく、仕事上でそのようなことを考える必要に多少は迫られているからだ。私は人事の専門家でもなく浅学なので、この分野での高い知見をお持ちの方がいらっしゃったら、アドバイスを願いたい。

私たちの会社も何故だか分からないが、少しずつ人が増えてきた。組織の規模が大きくなってくると、当然のことだが部門や階層も増えてくる。すると、これまでは割とフラットであまり苦労しなかった組織の組み立てや運営にも、知恵や工夫が必要になってくる。そんなことに時間を費やしても売り上げが増えるわけでもないし、面倒といえば面倒なのだが、組織が機能しなくては成果が生まれにくい規模になってきたのだろう。

スポーツに例えるならば、これまでは水泳やアイススケートみたいなものだから、卓越した個人プレーヤーがいればビジネスは何とかなった。多くの小さな企業においてそのような人とはおおよそ社長である。商品の企画や生産、販売から管理的な業務など、あらゆる場面で中心的な役割を果たす、水泳でいえばクロールから平泳ぎから何でもこなす個人メドレーの選手のような存在だ。このような段階では、個人の力量がイコール会社の力量となる。

しかし、スポーツと同様でプレーヤーの数が増えてくると個人の力よりも組織力が重要度を増してくる。イチローは首位打者として大リーグナンバーワンの成果を上げても、チームは優勝とは無縁であったように、組織力がないとチーム戦では勝てないのだ。この段階でスーパープレーヤーである社長は、イチローからザッケローニ(サッカー日本代表の監督)に変身しなくてはならない。ユニフォームを脱ぎ、フィールドの外から最大の成果を生み出すための組織づくりをすることが役割になる。

例えば、サッカーにおいてワールドカップで優勝するには何が大切だろうか? それは、エースストライカーを5人も6人も集めることではなく、卓越したプレーヤー同士が調和して、それぞれの役割を最大限果たすことだろう。仮に卓越したプレーヤーであっても最も大切なことは組織の調和であり、そうしないと勝てないから、組織との調和が計れない者はメンバーには選ばれない。現場のマネジメントの責任者である監督は、そのような視点からメンバーを選びチームを構成する。

仮に昨日まで中心メンバーとして活躍していた選手でも、組織の目的、向かう方向性が変わればメンバーから外されてしまう。メンバーに選ばれなかった選手は落胆するだろうが、監督は個人の幸福のために存在しているのではなく、組織の幸福のために存在しているからである。だから、国内リーグで大活躍している選手でも、海外の強豪国と伍していくにはそういった選手たちとのプレー経験が必要だと監督が考えれば、国内リーグのスター選手は選ばれない。その論理は選手にも分かるから、昔とは異なり、最近の有力選手はみんな日本を離れヨーロッパのチームに移籍するという行動に出る。

会社も同じことである。会社ができることは、ひとりひとりの幸福の追求ではなく、ひとりひとりの幸福の総和を最大にすることだ。ただし、幸福の定義はひとり一人異なっているし、これらをひとつひとつ直接的に満たすわけにはいかない。そこで会社が考える幸福の定義づけが必要になってくる。現時点で私としてはこのように定義している。

ひとつは、「幸福に交換可能な金銭的報酬」である。世の中において、幸福が直接金銭で買えるかどうかは分からないが、金銭をそれに近づける道具とすることは可能だろう。家や自動車を買うことで幸福に近づくと考える人であれば、それはまさに金銭で賄えるわけだし、子供をたくさんつくりたいという人にとって大きな制約条件は、まさに経済的な負担に耐えうるかどうかだろう。ボランティアに関心があれば、時間やお金を提供しようとするわけだから、これも報酬ということになる。

いま一つは「貢献度の高い人が成長できる、やりがいがあると感じる職場環境」である。職場が、働く人の意欲やモチベーションを奪いながら成立することは、短期的には会社にとってプラスになるのかも知れないが、長期的には「百害あって一利なし」だ。

つまり、言葉が適当でないかも知れないが、金銭的な報酬と精神的な報酬を提供し続けることが、会社ができる幸福の総和を最大にすること、だと考えている。そのためには会社は絶対に成長し続けなくてはならない。サッカーとは異なり、会社においてはメンバーを毎年入れ替えるわけにはいかないのだ。そして、人生にはライフステージがある。結婚して、子供ができ、家を購入し、子供の教育費が膨張し、引退後の人生に備える…という流れの中で、企業が成長し続けなければ、働く人たちのライフステージに対応することができない。だから、しがらみを排し、会社を成長に導く人材を重要なポジションに処遇し、これを常に繰り返さなくてはならない。サッカーの監督と選手のように、その起用法に選手が異議を唱えたり、反発をするようなことが起こるだろうが、それはそもそも立ち位置、視点が異なるからである。

蛇足だが、会社において組織のリーダーとなる人材は、たまたま能力や経験や運があったからその役割があるのだと考え、自らをいわば公共財だと認識し、そうではない仲間たちをサポートする義務があると個人的には考えている。リーダーには品性が求められるとよく言われているが、きっとそういうことなのではないだろうか。

株式会社 鎌倉新書

代表取締役社長 清水祐孝