会長コラム“展望”

友人の慈善活動を見て思ったこと

2010/05/01

社会


友人が、小児ガンで苦しむ子どもたちに手を差し伸べようというチャリティーに参加した。自らが同じ気持ちになるためだろう、頭を剃ると共に、金銭の寄付をする。そして、賛同する友人たちに呼びかけ寄付を募り、これを専門の団体を通して贈るという。その話は何年か前にも、海外にいる別の友人から聞いたことがあるが、非常にユニークだし、日本にはあまり見かけないスタイルの慈善活動である。

この話を聞き、もし自分が、世の中から小児ガンで苦しむ子どもたちを減らしたい、無くしたいと思ったとするとどのような行動をとるのかと考えてみた。

(1)子どもたちの医療(私はほとんど無理だが、若い人ならば医師になってそのような選択をすることもできる)や看護を行うなど、自らがその世界に飛び込む。

(2)子どもたちあるいはその家族に対して、金銭的な支援をする。金銭的な支援にも、直接的に支援を行う場合と、友人のように誰かが作り出した慈善事業のシステムに乗っかるという方法がある。

(3)子どもたちやその家族に、人的あるいは金銭的な支援ができるような慈善事業を自らが作りあげ、それをシステム化する。

善意の気持ちを、その効果で判断するのは本意ではないが、世の中から小児ガンで苦しむ子どもたちを減らしたいという視点に立てば、(1)より(2)、(2) より(3)の方が有効な手段となる。さらに考えれば、小児ガンの患者を直接支援するのではなく、小児ガン自体をなくす、つまり治療法の研究や治療薬の開発に直接携わる、あるいは支援するという方法もあるだろう。そうすれば、善意の気持ちはさらに大きな効果を生むかも知れない。

そんなデカいことまで 考えた挙げ句、友人の知らせてくれたWEBサイトから30ドルをクレジットカードで支払った自分には苦笑してしまうが、それは私の専門領域や関心のある分 野の中核の部分ではないということで許してもらおう。しかし、30ドルのうちの何割かは、未来のある小さな患者さんたちに少しは役に立つのだろう、などと考えると、どうやらチャリティーの最も大きな効用は、実施する側の満足感にあるのかも知れない。

さて、人はそれぞれの専門領域があり、そこでの活動を通して社会に役立っている。例えば、プロスポーツのアスリートは、一般の人では到底たどり着けない領域でのプレーを見せつけ、人びとに驚きや感動を提供している。そのような人がオリンピックに出場すると、国家や民族の高揚感をもたらす役割を演じたりする(あまりあおると良くないが)。

芸術の世界も然りである。そして、彼らのような飛び抜けた存在ではなくても、すべての人は仕事や家庭生活等を通して、社会のいずれかの部分に貢献している。もちろん、人によって貢献度合いはさまざまであろう。

しかし、それを客観的に評価することはできないし、そんなことには全く意味がない。マイナス貢献でなければいいのである。

私たちは、葬儀サービス、あるいは仏壇やお墓の提供を通して、顧客にそして社会に貢献している。この専門領域に磨きをかけることが社会に対する貢献そのものである。小児ガンの子どもたちを救いたいのは共通の思いだが、そこは自らの専門外と諦めて、お金を使ってその分野の専門領域の人たちにお願いすればいい。そして、そのお金はどこから生むかと言えば、自らの専門領域から生みだすのである。専門領域での仕事から、顧客を喜ばせて、収益を上げることが、可能性を広げてくれるのである。

当たり前のことだが、お金は手段であって目的ではない。お金儲けに否定的な人は、お金を目的と勘違いしている。お金があれば、専門外の世界にも貢献はできる。その意味で、お金は交換の手段として有用なのである、つまりお金は可能性なのである。

青臭い話で恐縮だが、日本の社会全体がシュリンクする中で、多くの分野で専門を磨くことを疎かにし、目先の収益ばかりを追ってしまうという状況が広がっている。そして、結果的に顧客に喜ばれない、専門外に貢献できない、そんな社会が私たちの眼前に繰り広げられつつある。私たちは専門領域に磨きをかけること が、現下の厳しい状況を脱出する唯一の手だてだと観念するしかない。目先の競争の中からは勝者は一社も生まれないことは、断言できる。


株式会社鎌倉新書

代表取締役社長 清水祐孝