会長コラム“展望”

必ずその日はやってくる それまでどう生きますか

2022/03/01

個人的価値観

必ずその日はやってくる それまでどう生きますか

先日、母親を連れて近郊の温泉まで旅行に出かけてきた。一緒に暮らしているわけではないので、80歳をとうに過ぎた彼女の状況を詳しく知っていたわけではない。事前に電話で話してみると、受け答えもしっかりしているし記憶力も確か、そこで認知症の心配はないなと安心していた。旅行に出かけても、わたしなんかよりスピーディーに歩いているし、よく食べてよく喋る、これまた安心だと思った。ところが、お風呂に一緒に入ったりして長く会話をしていた家内の話だと、同じことを何度も繰り返すことがあったりして、少しだけだけど認知症の兆候があるのではないかという。実の母親の認知症の経験がある家内は、わたしよりも敏感に変化を感じ取っていたようだ。

このような場合、何か打つ手はあるのだろうかと考えてみたけどよくわからない。まさか脳トレの教室に行けとも言えないし、言ったところで興味もないものに通ってくれるとも思えない。麻雀はどうだろう、どうせ同じ結果だろう。などと考えてみた挙げ句、結局は何もしていないのが現状だ。

そういえば、以前は社交ダンスにはじまっていろいろな趣味の会に参加しているみたいなことを言っていた。今回聞いてみると、そのような会には最近では全く行かなくなったという。定期的に食事をする仲の良い友人はどうしたかと問うてみると、コロナ以降は会っていないと言うし、ほかに会っている人はいるかと聞いても「ほとんど誰も」というのが彼女の回答だった。要するに、とんどの時間を家で過ごし、人とは会わない生活をいつの間にか送っていたのだ。

そんな母親に対してどのようなサポートができるのか、というのが大きな課題ではあるのだが、こういった状況は急変するわけではなく緩やかに進行するので、本人にとっても家族であるわたしにとっても何かしなくてはという危機感が生まれにくい。多くの場合、状況が目に見えて悪化してから、行動を起こす(場合によってはそれでも起こさない)が、そうなってからではできることは限られる。まさに社会が抱える大きな課題であろう。そのように考えると、元気なうちに終活に関する適切な情報を届け、行動を促すわたしたちの仕事は社会にとって大変重要な役割であると(自画自賛)改めて実感する。

さて、母親を見て次に考えたことは、いずれ自分にもそんな時期が必ずやってくるということ。彼女がわたしを生んだのは24歳の時だから、24年後、いや男女の個体差があるから20年後にわたしも彼女と同じ状況--社会に参画するわけでもなく、何もしない日々を送る--になると考えるべきだろうと。リンダ・グラットン教授は人生100年時代などとおっしゃるが、わたしはその考えには与しない。仮に人生100年だとしても生きている時間を、自分の意思を持ち行動に移せる時間(例えば80年)とほとんど社会に参画せずただ生きているだけ時間(20年)というように分ける。そして前者にフォーカスして、何をやりたいのか、やるべきなのかを早めに考えて行動を起こす、これが肝心だと思っている。

私の定義する「終活」とは死に備えることではない。(必ずやってくる)死を意識することによって生を充実させることだ。そんなことを説いていくこと、多くの人に行動を起こしてもらうこと。そして充実感のある人生を過ごしてもらうことが、わたし自身が残りの人生で取り組むべきこと(=終活)と考えている。

昨年夏、長年一緒に仕事をしていた少し年下の仲間が突然亡くなった。そしてつい先日、友人である近所の同級生が同じように急逝した。あまりにも早すぎる死に大きなショックを受けたわけだが、彼らは私たちにメッセージを発しているのだ。


「あなたにも、必ずその日はやってくる。それまでどう生きますか」



株式会社鎌倉新書

代表取締役会長CEO 清水祐孝