会長コラム“展望”

贅沢な時間

2014/09/30

個人的価値観

30年前の大学生のころ、時々、友人などと渋谷で待ち合わせをした。その頃は、どこで、何時にという内容を詳細に決めなくてはならなかった。「渋谷のハチ公前の交番の前で18時に集合」 そして、待ち合わせをしたメンバーが来ないものなら、たいていの場合待つ羽目になる。仕方なく、公衆電話を探して自宅に電話をする。すると、本人の母親が電話に出る。「そうね、1時間前ぐらいに出かけていきましたけど」などと応答されようものならば、「じゅあ、もうすぐ来るだろうから少し待ってみよう」ということになる。

「明日の18時頃に、渋谷で着いたらLINEして!」 いっぽうで最近の待ち合わせはこんな感じではないのだろうか。仮に、待ち合わせに間に合わなくても、途中で連絡がつく。「少し遅れるから、先に店に入って、始めててよ」などとスマートフォンにメールが入ってくる。思い返せば便利になったものだ。

30年前、私はまだ社会人ではなかったが、会社ではたいていの仕事は人の手によって行われていた。例えば、お客さまから商品の注文が入ったとする。出庫伝票を手で書き、納品書、請求書を書く。計算もそろばんは少なくなっていただろうが、電卓程度しか普及していなかった。ほとんどは、人の手と頭を使って処理がなされていた。商品の代金が入金されると、売掛金や台帳の消し込み作業をこれまた人の手を介して行う。

いっぽう、今日ではほとんどすべての作業をコンピューターが行ってくれるようになっている。細かく言えば、そこまでシンプルになっているわけではないのかもしれないが、上述のような仕事はごくごく簡単に処理ができるようになっている。便利になったこととして、ついでに思い出したが、携帯電話も最初は大きなショルダー型のものであったり、車載のものであったりした。機能は電話を掛けるか受けるのみ。それが、いつの間にかスマートフォンになり、電話以外のさまざまな機能がわずか100数十グラムの機械で行えるようになっている。

日々の当たり前の状況に私たちは慣れてしまっているのだけど、さまざまな技術革新が行われ、わたしたちは昨日より「便利」になった今日を謳歌している。ではいったい「便利」ってことは何を意味するのだろう?

それは「出来なかったことが出来るようになった」あるいは「出来たことだけど、時間が掛かっていたものが短時間で出来るようになった」。そんなふうに考えてみることができるだろう。後者について言い換えれば、時間が節約できるようになったということ。では、節約した時間をわたしたちは何に使っているのだろう?

待ち合わせがスムーズにできたことによって節約された時間はどこに向かっているのだろう。濃密なコミュニケーションに向かっているのか、はたまた別のことに時間が費やされているのであろうか。

30年経っても、時間は1日24時間で変化はない。そして、ひとりの人間が生きている時間、平均寿命もこの30年に大幅に伸びている。そんな風に考えてみると、人間にとって時間は、ひと昔前に比べるととても贅沢に使える状況になっていることに気づかされる。

時間が贅沢に使える現代の人生を、私たちは有効に活用しているのだろうか。この原稿を書いている間にも、この画面の裏で立ち上がっているメールソフトには、たくさんのメールが入ってくる。たいていは商品やサービスを勧誘するものだ。技術革新によって私たちが得ることが出来るようになった贅沢な時間は、技術革新による情報の洪水によって打ち消されていってしまっているような気がするのだけど、どうなのだろうか。あまり意味のないお話しですが……。

株式会社 鎌倉新書

代表取締役社長 清水 祐孝