会長コラム“展望”

量から質への転換

2021/08/01

社会

量から質への転換

前回ここで予想したとおりの展開になってきた。高齢者のワクチン接種が進む中で感染者は急増し、東京都などでまたしてもの緊急事態宣言の発令だ。新規感染者の数をコントロールすべき最重要指標だと思い込み、飲食店での酒類の提供が感染を抑え込むための最重要指標だと思い込んだ結果、経済の低迷の長期化を招いてしまったり、オリンピックを百害あって一利もないイベントにしてしまった、いったい何をやっているんだというのが人々の受け止め方、人の流れが減っていかないのもそういう意識の表れだろう。

勉強しないわが子に対して強制的に「勉強しなさい!」と声を荒げてみても、勉強に対する動機づけがなされていなければ、子どもは勉強しているふりをするだけで効果は生まれない。それと同様、飲食店での酒類の提供だけを強制的に抑え込んだところで無駄だろう。状況が改善されると思っていない国民に対して、無理矢理に飲酒の機会(=コミュニケーションの場)を奪おうとしたところで、さしたる効果は生まれない。

想像すれば簡単にわかることがこの国の専門家やリーダーには見えていないのだろう。たとえば夫婦と子ども2 人の4 人家族がいたとする。朝、夫婦は別々の職場に出かけ、子どもたちはこれまた別々の学校に出かける。4 人は職場や学校といったそれぞれのコミュニティで日中の時間を過ごす。夜になって、家族が自宅に戻り一家だんらんの時間を過ごす。自宅での飲酒は禁止されていないから、そこにはアルコールがあったりして、夫婦や親子のコミュニケーションがはずむ。この微笑ましいコミュニケーションの場を取り上げることができない以上、残念なことに専門家やリーダーの目的は達成されないのである。家庭でのオリンピック観戦もきっと盛り上がることだろう、テレビの前の家族がマスクをしているかなんて誰もチェックできない。というわけで、家庭内でのオリンピック観戦も新規感染者数の拡大に一役買っているに違いない。

そんな中でいくら飲食店を悪者にしようとしても、新規感染者は減らず、起こることは彼らの得べかりし利益がコンビニかスーパーに移転することぐらい。この国のリーダーは「飲食店でのアルコールを伴う会食の場」が感染拡大の場だと定義しているのだろうが、それは誤っている。正しい定義は「マスクを外したコミュニケーションの場」である。定義づけを誤っているのだから、打ち手も当然誤ったものになる。すべての「マスクを外したコミュニケーションの場」を奪うことができない以上、講じるべき手段は別のことになるはずだ。


7 月に入ってからのコロナウィルスによる東京都の死亡者数は半月(15 日間)で14 人。高齢者に対するワクチン接種が浸透してきたことの表れかもしれない。東京都は年間約12 万人の死亡者があるから、単純に半月で割ると約5000 人となる。つまりコロナウィルスによる死亡者はパーセンテージにするとわずか0.28%に過ぎず、死亡者数を最重要指標だと考えると、とても緊急事態宣言の対象にはならないだろう。ここで再三指摘しているように、やるべきことは新規感染者を減らすことよりも、客観的なデータをもとに人々の無用な恐怖心を引き下げることにある。


話は変わるけど、私たち人間は死を恐れ、それを遠ざけたいと誰もが思う。長生きは美徳であり、それを否定する人はいない。日本は世界トップに位置づけられる長寿国であり、例年ニュースでもそれを讃えるような報道が行われる。だけど、私たちはその長さだけに意識が向いていないだろうか。長生きが素晴らしいことだとしても、同時にその質も問われるべきなのではないだろうか。「生きている状態を長く保つ」ということと同時に「それが充実している」というテーマが社会でもっと語られるべきなのではないか。量から質への転換をこの国のリーダーは語り、国民がそのことに意識を向ける、そんなことが必要なタイミングが来ているにもかかわらず、過去の栄光にすがっているように思えて仕方がない。


そのことは経済も同様だ。わが国のGDPはピーク時には世界第2位にまでなった。けれど、21世紀に入ってからの成長はほぼゼロで、どんどん豊かになっている欧米や中国、アジアの国々との成長格差は歴然としている。年々人口が減り高齢化が進む中で、もはや量を追えない国家なのだ。21世紀に入ってからは起こる技術革新は常に海外発で、日本は20世紀に築いた資産で何とか食いつないでいるといった様相が続いている。私たちが保有する有形無形の資産ををもとに豊かさとは何かを再定義し、量を捨てて質に意識を向けた政策がとられるべき、そのように思っている人は多いはずだ。


株式会社鎌倉新書
代表取締役会長 CEO 清水祐孝